WWEヴィンテージ・コレクション #2

1988年4月 バッドニュース・ブラウン vs ブレット“ヒットマン”ハート

「バッドニュースにグッドニュースだ」で有名な?バッドニュース・ブラウン。日本ではバッドニュース・アレンとして知られています。
元々柔道選手で、モントリオールオリンピックでは銅メダルを獲得したほどの実力者です。日本で柔道修行していたということもあり、坂口征二との柔道ジャケットマッチをきっかけにプロレス入りしました。
ワールド・レスリング・フェデレーションにおいては、「サバイバー・シリーズ」のイリミネーション・マッチで「二年連続仲間割れして試合放棄(カウントアウト負け)」という偉業も達成しています。


ヒットマン”の二つ名で知られるブレット・ハートは、カルガリーを拠点とした「スタンピート・レスリング」の主宰者、スチュ・ハートの六男。「ハート家の兄弟は下に行くほどセンスがある」と言われていましたが、最終的には弟のオーエンよりもブレットの方が出世しました。
新日本プロレスに参戦していた頃はダイナマイト・キッドの陰に隠れて目立ちませんでしたが、ワールド・レスリング・フェデレーションでは姉の婿であるジム・ナイドハートとのタッグチーム「ハート・ファウンデーション」としてタッグ戦線で活躍し、その後シングルプレイヤーとしてブレイクし、5度にわたってワールド・レスリング・フェデレーション王者となりました。
WWEにおいては「モントリオール事件」の一方の主役として、今でも話題に上る存在です(「モントリオール事件」の経緯は、映画「レスリング・ウィズ・シャドウズ」で詳しく触れられています)。ショーン・マイケルズが今でもカナダに行くと「お前がブレットをハメた」と言われるのは、その事件によるものです。
ブレットの妻は「次はあなたの番よ、ハンター」と冷たく言い放ちましたが、その後ブレットは離婚し、ハンターさんはビンスの娘ステファニーと結婚しました。
決め台詞は"The best there is, the best there was, and the best there ever will be"(現在、過去、未来においても俺が最高だ)


この試合では、ヒットマンらしさが随所に出ていました。
受けに回れば相手の攻撃をまともに食らい、攻勢に出れば「ヒットマン」の二つ名に相応しい鋭角的な打撃を見せつつ、自分は怪我をせず、相手にも怪我をさせないという芸術的な試合運びが堪能できます。


△ブレット(20分時間切れ引き分け)ブラウン△


今ではめったに見られない「時間切れ引き分け」。日米レスリングサミットの三沢タイガー戦でも時間切れ引き分けでしたし、ブレットは時間切れ引き分けの名手だったのでしょうか?
ほかに時間切れ引き分けといえば、“スタニング”スティーブ・オースチンダスティン・ローデスWCW TV選手権試合が思い出されます。
そのオースチンを引き上げたのがブレット。ショーン・マイケルズとは犬猿の仲でしたが、その最大のライバルともいえるストーンコールドをスーパースターへの道に招き入れたのはブレットだったのです。


1988年4月 ワールド・レスリング・フェデレーション世界ヘビー級選手権試合 (王者)“マッチョマン”ランディ・サベージ w/z エリザベス vs “ミリオンダラーマン”テッド・デビアス w/z バージル(挑戦者)

レッスルマニアIV」で行われた王座争奪トーナメントの再戦。そのトーナメントが行われたのは、デビアスアンドレから金で王座を買おうとした為、王座が剥奪されたことがきっかけでした。


テッド・デビアスは、日本においては世界最強タッグリーグ戦に参戦して優勝したり、復帰後いきなり世界タッグ王座を取ったりと結構活躍しているのですが、どちらかというと「スタン・ハンセンのパートナー」としか見られていなかった感もあります。しかし、若かりし頃はリック・フレアー、グレッグ・バレンタインと並び「時期NWA王者」として期待されていた存在です。
ワールド・レスリング・フェデレーションでは“ミリオンダラーズ・マン”(100万ドルの男)、億万長者のキャラクタでヒールサイドのトップとして長く活躍し、後にIRS(マイク・ロトンド)との「マネー・インク」というチームでタッグ王者となっています。
また、ワールド・レスリング・フェデレーションに移籍した当初の“リングマスター”スティーブ・オースチンのマネージャでもありました。
最近息子が同じ名前でデビューしたのですが、その付き添いで姿を見せていました。いくらビンスが「Jr嫌い」だからといっても、同じ名前の人が二人同時に登場したのではややこしくて仕方ありません。かといって「テッド・クラシック」というのもどうかと思いますし、やはり「ミリオンダラーマン」と呼ぶしかないのでしょうか。


この試合の見所は、デビアスのエルボードロップ自爆から、サベージのブーメラン→ダブルアックスハンドルにわたる三度の「後方回転受け身」。後方回転受け身をさせたらロック様かデビアスかというくらいで、やられているシーンではありますが、大きな見せ場でもありました。


デビアスバージル介入による場外転落→カウントアウト)サベージ×
※カウントアウトの為、規定により王座移動せず


1988年4月 デモリッション(アックス&スマッシュ) w/z ミスター・フジ vs ストライク・フォース(ティト・サンタナ&リック・マーテル)

遠目だとサンタナとマーテルの見分けがつかない。


リック・マーテルは、日本で大物視されていた時代もありました。その理由は、なんといっても「ジャンボ鶴田からAWA王座を奪った」「リック・フレアーとNWA・AWA王座統一戦を行った」という実績によるものです。
ワールド・レスリング・フェデレーションではさほど優遇されていたとはいえず、ストライク・フォースとしてタッグ王者になっただけですが、シングルプレーヤーになってから“ザ・モデル”を名乗り、毎回コスプレをして地味に活躍し、日本のUHF局でたまに放送される海外プロレス番組のオープニングを飾っていたりもしていました。
個人的には、マニアツアー@大阪城ホールロイヤルランブルで、ボブ・バックランドと絡んだシーンが強く印象に残っています。マーテルは、ショーン・マイケルズが職場放棄した為、その代役として参戦したのですが、元ワールド・レスリング・フェデレーション王者と元AWA王者の絡みはなかなか興味深いものがありました。
余談ですが、そのランブル戦ではボブさんが大活躍したものの、優勝者はその頃昇天していたはずのアンダーテイカでした。


ティト・サンタナは、80年代末から90年代初にかけて「ゆかいなキャラクター大集合」状態になっていたワールド・レスリング・フェデレーションにおいて“エル・マタドール”のキャラクタを付与されていたのですが、そのことから分かるようにヒスパニック系です。
これより前にインターコンチネンタル王座を獲得したこともあるのですが、個人的にはどちらかというと「前座の人気者」というイメージを持っていました。80年代前半、スヌーカやバックランドの時代にはまた違った評価だったのかも知れません。
そのスヌーカとタッグを組んで「日米レスリングサミット」で小橋&渕と対戦したこともあります。サンタナはワールド・レスリング・フェデレーションにおいては小柄な方でしたが、それでも当時の日本人選手と比べるとかなり体格が良くて驚いた覚えがあります。
その試合の映像。
WWF/AJPW - Snuka & Santana vs Kobashi & Fuchi


○スマッシュ(フジさんのステッキ殴打からピンフォールサンタナ×


バンザーイ!サヨナラ