プロローグ

アルティメット・ウォリアーは、WWEの歴史の中でも特異なキャラクタで異彩を放っていた存在でした。一時はトップクラスの人気を誇っていたのですが、法外なギャラを要求したり、試合をボイコットしたりすることが多く、結局は解雇されるに至りました。
通常、このクラスの知名度を持つ選手なら地方インディペンデント団体にそれなりのギャラで出られるはずなのですが、ウォリアーはほとんど出場していません。それは、インディペンデント団体にも法外なギャラを要求したからだといわれています。トラブルメーカーだから避けているのか、交渉が決裂したからなのかは分かりませんが、TNAですら招聘しようとはしていません。
WWEのフロントは、このDVDにおいて辛辣な評価を下しています。ブレット・ハートは、WWEが自分を題材にしたDVDを出すと聞いて、この時のウォリアーに対するひどい言われように「自分もこんな扱いを受けるのではないか」不安を感じ、自分から編集に関わって大幅に内容を変えさせたといわれています。つまり、それほど扱いがひどかったというわけです。
私は問題のDVD(今回はCSですが)を実際に見て「こりゃひどい」と……まあぶっちゃけ爆笑の連続だったわけですが。
言われても仕方のない人だから(勘違いぶりもさることながら、人種差別主義者でもあるので、東洋人である私には肯定的に見ることはできません)笑えるわけですが、ブレットがこんな扱い方されたらさすがに気の毒です。
ともかく、ありとあらゆる罵詈雑言が飛び交う中に、当時ファンの立場で見ていた若い人たちの視点からも語られており、非常に興味深い作品になっています。
また放送されることもあるかも知れませんし、日本語版が出るかも知れません。当時を知っている方には是非一度ご覧になっていただきたいと思います。

リングネーム

テキサス・WCCW在籍時は「ディンゴ・ウォリアー」と名乗っていました。
ビンスは「なぜディンゴ(卑怯者)なのか」と、イメージに合わないリングネームを変更することを指示したようです。
ブルース・プリチャード曰く「改名には何の問題もなかった。ディンゴの意味にこだわる人もいなければ、ウォリアーにさえ何の意図も含まれていなかった」とのこと。単に当時流行だった「ザ・ロード・ウォリアーズ」から拝借しただけなのかも知れません。
神聖でもなければローマ的でもなく、そればかりか帝国ですらない。(ヴォルテール
そして、ビンス自ら「アルティメット・ウォリアー」と命名しました。

入場シーン

老いも若きも、口を揃えて「入場シーン最高だった」と語っています。
ファンの視点から見ていたクリス・ジェリコやクリスチャンは、その入場シーンの格好良さを熱っぽく語っていました。
フロントサイドにいた人たちは「テレビ向きのスターだ」と、常人離れした筋肉とフェイスペイント、入場時のダッシュ、ロープを揺さぶる動きなど、見た目のインパクトについて冷静に分析していました。
実際に一緒に仕事をしていた世代と、見る側の立場だった若い世代とのギャップが大きく、ファンにとってはやはりスーパーヒーローだったということがよく分かります。


ウォリアーの入場を語るのに、そのテーマ曲は欠かせません。
曲を作ったのは“90秒の魔術師”ジム・ジョンストン。出だしの数秒で一気に観客を引き込む曲を作らせたら彼の右に出る者はいません(出だしがショボいのは大抵既成ミュージシャンが書いた曲です)。ウォリアーのキャラクタを考え、曲全体はシンプルに、でも出だしのインパクトは強くなるように作ったとのこと。
サージ(サージェント・スローター)は「入場テーマの重要性がよく分かった」と話しています。ドラムロールみたいな曲らしき音で入場していた人が言うと説得力がありますね。
実際、ウォリアーやランディ・サベージの世代になるまで入場テーマのない選手の方が多かったのですから、このジャンルに強い影響を与えたことは間違いないでしょう。日本で言えばミル・マスカラスのようなものです。


ただ、いつも全力ダッシュで入場し、試合開始前にロープをブルブル震わせるパフォーマンスを見せるので、試合が始まるまでに力を使い果たしていたと言われていたのですが、それも誇張ではなかったようです。実際に対戦したサージも「リングに着く頃には息が上がっていたよ」と話しています。
でも「一瞬で試合を決めるから問題ではない」(ジェリコ談)というのも確かです。あっという間に試合を決めていたので、試合の巧拙はさほど重要ではなかったのです。しかし、やはりバックステージでは「入場シーンだけ」との陰口を叩かれていた(テッド・デビアス談)ようです。

出身地

公式プロフィールでは、出身地が"Parts Unknown"となっていました。これは「位置不明」といった意味の造語で、要するに「出身地不詳」を大仰に言っただけのことです。


実際の出身地がどこであるのか、様々な説が唱えられていました。

  • スペイン説(エッジ談)
  • 宇宙からの生命体説(クリスチャン談)
  • パナマ説(エッジ談)
  • コスタリカ近くの小さな島が「パーツ・アンノーン」という名前らしい。大昔、サムーというロシア人の肉屋(実際には"butcher"、字幕は婉曲表現)がその島に移住したという。ウォリアーはその遠い子孫だ。(ジェリコ談)
  • ニューメキシコ州西部から21マイル(約30km)離れた所がパーツ・アンノーンだ。街には標識もある。(ジーン・オークランド談)
  • 天国と地獄の間にある所(エッジ談)


いつの間にか「パーツ・アンノーンという地名」にすり替わっているのが笑えます。
最後にボビー・ヒーナンがオチを付けてくれています。
「出身地を忘れたんだ」


本当の答えはWikipediaで。
Warrior (wrestler)

インターコンチネンタル王座戴冠

「サマースラム'88」時点でのインターコンチネンタル王者はホンキートンク・マン。見た目はエルビス・プレスリーのコスプレをしているイロモノですが、単なるショーマン派レスラーではありません。いかにも弱そうで本当に弱いのですが、この時点でなんと15ヶ月間も同王座を防衛していたのです。負けそうになるとマネージャのジミー・ハートが乱入して反則負けにしたり(アメリカでは反則・カウントアウト絡みの決着だとタイトル移動しない)、ロープを掴んでのエビ固めで勝つといった試合が多く、「弱いのになぜか防衛している」という、アメプロチャンプの王道を行くレスラーでした。技らしい技は何もありませんでしたが、試合の組み立てそのものは巧く、どんな相手でも柳に風という感じで受け流して最後にはベルトを持って帰るという不思議なレスラーでした。


ホンキーは「サマースラム」で防衛戦を行う予定になっていました。しかし、防衛戦の相手は公表されておらず、当日発表されることになっていました。ホンキーとハートがリングに上がり、「誰でもいいからかかってこい」と挑戦者を呼び込むのですが、なかなか出てきません。いい加減しびれを切らした頃合いに、突然聞き慣れた音楽が場内に流れてきました。その曲を聴いた瞬間、ホンキーの表情がこわばりました。挑戦者は、当時売り出し中の新進気鋭のパワーファイター、アルティメット・ウォリアーだったのです。
ウォリアーが全力ダッシュリングインし、いきなりホンキーに殴りかかったところで試合開始のリングベル。本来なら入場時に着ているジャンプスーツは脱いでから試合するのですが、脱ぐ暇もなくボディスラムで投げられ、ダイビング・ショルダータックルで吹っ飛ばされ、ディンゴ・ボンバー(クローズライン)で倒され、ボディスプラッシュを食らい、あっという間にピンフォールを奪われました。試合開始のリングベルが鳴らされてから試合終了のリングベルが鳴るまでを実測したところ、約0分31秒でした。


トリビア
WWEには、31秒で負けたチャンピオンがいた」
では確認のVTRをどうぞ。
YouTube - Ultimate Warrior vs. Honky Tonk Man
フィニッシュ前、わざわざウォリアーが飛んでくる方向に向きを直しているホンキーがおちゃめですね。


ウォリアーはWWEで初のタイトルを獲得しました。この試合で圧倒的な勢いで強さを見せつけ、これを機に次代のエース候補として名前が挙げられるようになったのです。

ウォリアーの世界

WWEでは昔から、喋り、入場、試合が同じくらいの比率で評価されるといわれてきました。ウォリアーの場合、喋り3:入場6:試合1くらいの評価だったかも知れません。
ウォリアーの喋りには勢いがありました。しかし、その内容は支離滅裂で、「本人も理解できていなかったと思う」(ジェリー・ローラー談)、「頭に浮かんだ適当なことを言っていただけ」(ブルックリン・ブロウラー談)等々、ここでは誰もが口を揃えて。「何と言っているのかは分かるが、何を言っているのか分からない」(竹下登さんのようですね)と評していました。
JR(ジム・ロス)は「字幕があれば一般人にも理解できただろう」と言っていましたが、そんな喋りを翻訳した斎藤さんや森本さんの苦労が偲ばれます。翻訳には翻訳なりの苦労があるということですね。
ファンの立場で見ていたジェリコは「勢いはあるが内容は理解できない。意味はよく分からないが、とにかくかっこいい感じだった」と話しています。
思い入れたっぷりに語っていたのはエッジとクリスチャン。「レッスルマニア VI」の喋りの内容を細部までよく覚えていたのに驚きました。彼らは「レッスルマニア VI」が開催されたトロント出身で、特にエッジは実際に会場でその試合を見ているはずなので、それだけ思い入れが強かったのでしょう。それこそテープが摺り切れるほどビデオを見返し、細部まで覚えたのだと思われます。でも、エッジの「腕に巻いたヒモが脳への血流を止めたのかも」というひどい言いようは…すいません、爆笑しました。
要するに、今の言葉で表現すれば「電波」というやつです。


そのものズバリの映像がありました。
YouTube - Ultimate Warrior Interview
おそらく「レッスルマニア IV」の対ハーキュリーズヘラクレス・ヘルナンデス)戦の時のものだと思われます

VS アンドレ・ザ・ジャイアント

触れたくありません。アンドレが哀れすぎる。
ただ、一点だけ注目すべきポイントがありました。アンドレは、自分の指示通りに動かず無茶な攻撃を仕掛けていたウォリアーに腹を立て、ある試合でクローズラインを受けずに拳を突き出して顔面を殴りつけて制裁し、それ以来ウォリアーがアンドレの指示通りに動くようになったとのこと。
アンドレのシュート話はいろいろと聞いたことがありますが、ウォリアー相手にもやっていたんですね。それをアンドレのマネージャだったボビー・ヒーナンが話しているというのがまた。「攻撃の仕方を指示していた」とか、ぶっちゃけ過ぎ。

VS ハルク・ホーガン

1990年1月「ロイヤルランブル」。ホーガンとウォリアーは、30人時間差バトルロイヤルに出場したのですが、その場にいた他のレスラーを全員落としたことで、初めて一対一で対峙することとなりました(二人に片付けられたその他大勢の中にショーン・マイケルズの姿が…)。次の選手がすぐに入ってきたので時間は短かったものの、この時“無敵の超人ハルク・ホーガン”の立場を脅かす者として、ウォリアーの存在が浮上したのです。この時はホーガンが優勝したのですが、これに前後してウォリアーはホーガンを意識した発言を繰り返していました。
そして、ジャック・タニー会長(経営者ではなく、興行団体としてのWorld Wrestling Federationの会長。現在のゼネラル・マネージャみたいなもの)の裁定により、WWE史上初となるWWE王者とIC王者のダブルタイトルマッチが組まれました。ベビーフェイス(善玉)のトップ同士の対戦がビッグイベントのメインになることなど、それまで一度もありませんでした。ホーガンとアンドレが対決した時はアンドレがヒール(悪玉)に転向しています。この決定は、半ば驚きを持って、半ば当然あるべき世代交代への挑戦として受け止められました。


決戦の場は、トロントスカイドームで開催される「レッスルマニア VI」。絶対的なスーパースターのホーガンと、日の出の勢いのウォリアーの直接対決。この試合がどんな展開になるのか、おそらく誰にも予想できませんでした。
レッスルマニアのメインで二人のスーパースターが直接対決するというシチュエーションが過去になかったということと、ホーガンとウォリアーのスタイルが噛み合うのかどうかということがポイントで、大凡戦になる可能性もあるかも知れないというリスクを背負った大きな賭けだったのです。


試合は意外なほど噛み合い、ウォリアーのレスラー人生の中でもトップクラスの名勝負となりました。
私はこの試合をビデオで見ました。結果は既に分かっていました。しかし、それでも序盤の手に汗握る攻防にハラハラし、めまぐるしく変わる展開にワクワクしながら見ていました。結果が分かっていても面白い試合は面白いのだということを、これを見て初めて理解しました。この試合を見ていなかったら、私は今の今までWWEファンを続けているということはなかったでしょう。それほど素晴らしい名勝負だったのです。


この試合に勝ったのはウォリアー。新WWE王者として、遂にプロレス界のトップに立ったのです。
ホーガンは「試合結果もベルトを渡すことも全て承知していた。観客が新王者に歓声を送る中、リングを去ることも分かっていた。だがやはり後味は悪い。」と、これまたぶっちゃけ過ぎ発言。自分が負けるのが嫌だったというのもあるのでしょうが、力量のないレスラーに負けなければならないということが一番の屈辱だったのだと思われます。